母は夏の読書感想文を書いてみたい

 息子よーよー(高1)の宿題にこんなのが出ました
 
 今昔物語の『羅城門の上層に登りて死人を見る盗人の話』と『大刀帯の陣に魚を売る媼の話』を読んでから、芥川龍之介の『羅生門』を批評せよ。

 宿題はもう少し細部にわたって支持がしてあったのですが、要約すると上記のようになります。 
 これは母もしてみたいぞ。もう母がやってしまえばいいのでは?

 でも肝心のよーよーは首を縦に振りません。せっかく図書館から今昔物語と芥川龍之介の小説の解説本を借りてきたのに、じっくりと読むことなくさっさと仕上げてしまいました。別に出た宿題の読書感想文だって、さっさと仕上げてしまうのです。
 もう少し読み手の気持ちになって凝った文章にしようとか、考えさせる文章を書こうとか思わないのでしょうか?そういう書き方もあるということがわからないと『羅生門』の計算されつくした面白味がわからなくて、文章をさらっと読みしかできない人になってしまうんですよ。
 『いろんなことを過度に子供に期待する親』という立場も嫌なので、自分でじっくりと読んで感想を書いてみることにしました。



 さて、ここからが感想文です。


 『羅生門』については学生時代に『或る日の暮方の事である』から始まって、じっくりと先生に教えていただいたはずです。今昔物語との類似点と相違点にも言及していらしたし、主人公の心情と光景の対比についても教えていただいたはず。
 でもこの歳になって、両方を読み比べて思い浮かぶのは、『テレビのニュース』と『ワイドショーのニュース』なのです。私の感覚では今昔物語がテレビのニュースで、芥川龍之介の小説がワイドショーのニュースでした。
 今昔物語は主人公の伝聞を正確に書き写して残しただけのものですが、小説のほうは詳しい説明を足して読者の前にわかりやすく説明して見せたように感じるのです。テレビのニュースは簡潔で分かりやすいのですが、一方で事実だけを伝えて面白味に欠けるという性質があります。ワイドショーは事実を詳しく分析して、チャンネルを変えられないように、なるべく興味をもってもらえるように番組を作っています。
 この興味を掻き立てられるという点が充実している小説は、読者にとってもわかりやすく主人公に同調しやすいのです。

 今昔物語では主人公は最初から盗人になるつもりでいますが、小説の主人公は迷っています。この迷いの気持ちを表すように、いろんな小道具が出てきます。それは『暮方』という時間だったり、『雨やみを待ってゐた』という動作だったりします。
 この迷いがなくなる瞬間を書くために書かれた小説といっても過言でないほど、その決意のひるがえし方は鮮やかです。そこに人は何を見るのでしょうか?『生きる』という本能的な慾に支配された人間に対して、『あさましい』『いやしい』などというありきたりな感想を超えた姿を見るのでしょう。そしてその中に自分の姿も見え隠れしてしまうのです。
 今昔物語の該当の話を読んでも身につまされることはないでしょう。でも小説に変化したお話は『こういうことは自分の身にも起こるかも』と感じさせる怖さがあります。誰でも一生に一度ぐらいは進退窮まる経験をすることでしょう。そういう点ではこの小説が教科書に載っているのは、とても正しいことだと思えるのです。経験を小説で補ってあげたいという大人の愛情と配慮が感じられるからです。

 いたって短い小説ですから、今から読んでも夏の宿題の読書感想文には間に合いますよ。若い人に大いに感想を書いていただきたい小説です。